
神社について
御由緒
当社はもともと天児屋根尊をお祀りし「橘の宮」と称しておりましたが、中古よりは「天神社」と称し、 菅原道真公をご祭神としてお祀りしております。
天照皇大神と方除けの信仰
かつて、この鞍作の地には神明水という清水がこんこんと湧いていました。渋川郡竹渕村に住んでいた止苅村主家麿は、神明水を満たした池に燕子花(カキツバタ)の花を植え、鬼門の守り神として、天照皇大神をお祀りしました。いにしえより、鬼門は災いがやっ て来る方角である、と恐れられておりました。この災いを除いてくださる「方除け」の御神徳あらたかとして、崇敬者は年ごとに増加し、境内の砂を頂いて鬼門の守りとする信仰は、今も続いています。
白雉元年頃(奈良時代)、孝徳天皇は難波長柄豊崎宮の守り神として、大将軍社(現在の大阪天満宮) をお祀りされました。一説には、家麿はこれにならって鬼門を守る社を造営した、とも言われています。
菅原道真公と当社
昌泰4年(901年)、菅原道真公は赴任先である筑紫国(いまの福岡県)の太宰府へ向かわれる途中、道明寺にいらっしゃる叔母上のもとへ立ち寄ろうとお考えになり、船で大和川を下っておられました。そのとき、季節外れであるにもかかわらず、この地の燕子花が満開に咲き誇っておりました。その様子をご覧になった道真公は、川べりに船を留めて、珍しい金色の燕子花をいたく愛でられ、また、歓待した里人との別れを惜しまれ たということです。
家麿が植えた燕子花は普通のものとは趣が異なり、花は黄金色をし ていたので、瑞草(めたい草)と称えられました。神明水でしか育たず、他所に移し植えると花を咲かせなかったと伝わっています。
やがて、村上天皇の御代(天暦年間)になると、京都北野の地に道真公をお祀りする神社が建立されました。御神縁浅からぬこの地においても、道真公をお慕いする人々の願いにより、新たに社殿を建てて天照皇大神と並べてお祀りすることとなり、郷里を守る産土の神として信仰されました。
江戸時代以降
江戸時代には、道真公は学問の神・大威徳天満大自在天神として、ますます深く崇敬されるに至りました。明治40年10月に南鞍作村の無格社・天照皇太神社を、さらに明治41 年10月鞍作新家村の村社・菅原神社を合祀(神社を合併)しましたが、新家村の菅原神社は昭和34年12月に旧地に遷り、新家天満宮となりました。
当社にはかつて、京都の公家高辻家(道真公の子孫)より寄進された台灯籠があり、これを掲げた時には大名も馬から下りて通行する習慣がありましたが、明治維新後は行方不明になっています。
兼務社の新家天満宮については、こちらをご覧ください。
御神徳
鬼門・厄除の神
当社創建の由緒により鬼門の護り神となす。
学問・勧学の神
御祭神 菅原道真公は、文教の神として崇められる。
家内安全の神
御祭神 天照皇大神の明るい温かい清い神格で深い愛情と理解を示す神。

商売繁昌・五穀豊穣の神
当境内地末社稲荷の大神・杉丸大明神(保食大神)を祀り、商売繁昌・五穀豊穣の御神威をなす。

金運・恋愛の神
当境内地末社白龍弁財天を祀る。
鎮座地 鞍作村について
菅原神社が鎮座する加美鞍作の地は、古くから馬の鞍を作る技術者集団が居住していたと考えられ、古典にも鞍部賢貴(雄略紀)、鞍部村主司馬達等(敏達紀)、鞍作鳥(止利)(推古紀)など、当地にゆかりの深い人物の名が記されています。
司馬達等は中国大陸からの帰化人で、仏教を深く信仰していました。達等の子「多須奈」は用明天皇のために仏堂の建立を志し、のちに出家して日本最初の僧侶となった、と伝わっています。鳥(止利)はその多須奈の子であり、仏像を造る仏師として活躍しました。
鞍部村主司馬達等
馬の鞍作りの工匠、私宅に仏像を祀り布教を始めた人
鞍作鳥(止利)
仏工師で聖徳太子に見出だされ史上幾多の傑作を残した
代表作
法隆寺の釈迦三尊(この像の裏には作者鞍首人・止利とある)
飛鳥大仏(この像は火事にあい、現在は手のみ現物)
年中行事
1月1日
歳旦祭
1月中旬
とんど祭
ぜんざい授与(数に限りがあります)
3月春分の日
稲荷祭
御庭火祈祷(当日受付あり)
7月23日・24日
夏祭
御神楽奉納(当日受付あり)
10月16日
秋祭
11月
七五三
12月第2日曜日
注連縄作り
12月31日
大みそか
雑煮授与(数に限りがあります)